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科学的に安全であるのなら、なぜ流せないのか


それでもなお残る不安とは何か。


年齢や背景(文系・理系など)に関わらず誰にでも分かりやすい説明は。

時間がない人でも誰でもひと目で理解できる「見える化」は可能か→動画などビジュアルを活用。


そもそも、どのような科学者たちが、どのような根拠で、「薄めたトリチウム水なら海に流しても問題ない」と主張しているのか、顔や内容が一般の人には具体的に見えていない。科学者の言葉が伝わりにくいのであれば、今こそサイエンス・コミュニケーターの出番ではないだろうか。反論も平等に紹介して、一方通行にならない対話の場が必要。


科学者の中にも、いろいろな主張が見られる。科学コミュニティ内の意見の対立の構図も、その背景もパワーバランスも、ほとんど一般の人には見えてこない。それぞれの説にそれぞれの信者がいて、正誤が分からない状態だ。


安全と安心を巡るリスクコミュニケーションについては、下記の文献が参考になる。まだ日本では「リスク管理の理論的背景にあるレギュラトリーサイエンス」があまり理解されていないし機能していない。しかし政策づくりにおいては、予算の限界や被害の広がりなどを考慮して科学的にはグレーでも期限を切って決定を急がなければいけない場面がある。感情や迷信ではなく科学的証拠(エビデンス)に基づく社会を目指すのなら、科学者にもそれ以外の人々にも、それなりの理解と覚悟が必要だ。無用なパニックを招きがちなメディアも社会的役割を自覚して行動しなくてはならない。


(BSE問題の食品安全委員会について)そのほとんどが「自由気まま」な基礎科学の研究者であり、「行政の仕組み」という縛りがあるレギュラトリーサイエンスを理解する人材は少数だった。(中略)レギュラトリーサイエンス専門家の養成が遅れていることが大きな問題だ。

『証言 BSE問題の真実~全島検査は偽りの安全対策だった!』公益財団法人 食の安全・安心財団 唐木英明編著より、匿名氏の証言。



◆クリアにすべき不安要素1


処理水の内容「本当にトリチウムしか残っていないの?」

他の核種が混入しているのではないか、という疑念の声が各所から上がっている。

確実にトリチウム以外を除去できるのか。→2020.9.15東京電力が「二次処理性能確認試験」を開始した(News参照)。残すはトリチウムのみ、にできるかどうかの実証実験。結果に注目したい。


それを確実に示す、第三者の監視付きの、透明性の高い仕組みは構築できるのか。


抜粋:原発敷地内にあるタンク群960基の「トリチウムしか残っていない」と言われた代物が様々な核種が混在していることが判明した。更に、毎日発生する170トンも同様である。

東電のこの問題にたいする対応が、測定人物、人材が枯渇し、JAEAに応援を頼んでも有効な対策が出来なくなっているとみられる。


「【福島第一】測定員不足、計器故障、二次処理の実験もされないまま議論は大詰めに【ALPS処理水】」


上記サイトでは、福一事故以来、継続的に東電を取材しているおしどりマコさんが、トリチウム以外にも複数の核種が残されている現在の「処理水」を浄化するための「二次処理」は、そもそも実行可能なのか?を問うています。議論の前提となる情報(実証実験データなど)が全く示されていない、というごもっともな批判。ちゃんと処理できるの? 不都合があった時に隠さない? というのは、自然界に放出するならば、誰もが気にする点です(この疑念こそ風評被害のもと)。不信感を払しょくするシステムづくりを。→別記事



2020.5.22など まさのあつこさんのTwitter

(長いスレッドから抜粋。一連のツイートはTwitterでご覧ください)





◆クリアにすべき不安要素2


生物影響「人体や海洋生物に悪影響は出ないの?」別記事





 

不安の「完全な」払しょくは難しい。とすれば、政府はどのように決断を下し、その過程に国民やメディアはどのように関わることができるのか? 以下、ヒントになりそうな言葉をピックアップします。



○開沼委員「自分たちはお上に委ねざるを得ないのに決定だけは任せられる、押しつけられるという感覚になっている。そこをどのように埋め合わせていくかが、海洋放出ありきではありません、いろいろな生産者の方であったり住民の方であったり、あるいは国民全般が今回の問題を見るときに、自分たちもそこについて理解したんだ、あるいはそこについての決定をする上での重要な選択肢をちゃんと選んだんだという感覚をいかに醸成するかが重要かなと思っております」
 
専門家や政府は「混乱させるのが不安」と考えているのに対し、市民の側は、「情報が偏っていることが不安」「専門家が信用できないことが不安」と考えているのである。両者の間にはギャップがある。(中略)市民の側も、専門家に行動基準を一つに決めてほしいと丸投げするのではなく、幅のある情報のなかから自ら選択する力(シチズンシップ)をもつ必要がある。そのような意味で、専門家の社会的責任は、市民性の成熟度、そして社会の成熟度と無関係ではない。

藤垣裕子『科学者の社会的責任』岩波書店(2018)p48-52

 

海洋プラスチックに関する本に、処理水の問題にも通じる示唆に富む記述あり。


極端な予防原則には、違うリスクを呼び込むことで、自分で自分を否定するジレンマに陥る危うさがあります。(中略)科学的に証明できなくても。少しでもリスクがあるなら。こういわれては、極端な予防原則に反論する実験や調査、そしてシミュレーションなど、できるものではありません。ただ、この反論のしづらさこそ、疑似科学であることの証明です。

磯辺篤彦『海洋プラスチックごみ問題の真実~マイクロプラスチックの実態と未来予測』化学同人(2020)p138-141「コラム5:健全な予防原則、極端な予防原則」

 

「多くの人が納得すること」と「正しさが実現すること」。この2つは両立できるとは限らない。二者択一だとして後者を目指すなら、むしろ話し合わないほうがいい場合すらあるのか? ポピュリズムの危うさを思う時、このあたりが揺らぐ。「対話が重要」と主張しているこのサイトにとっての「不都合な真実」かもしれない。


人間は論理的ではない。話しあえば正しさが実現するわけではない。すべての政治と哲学は、この前提から始まらねばならない。

2019年5月18日 日経新聞「ソクラテスとポピュリズム」東浩紀 より抜粋


 

海洋放出を前提に、「度を過ぎた不安情報発信で世の中を乱すのは社会的犯罪」、今こそ「メディアが風評抑制キャンペーンを始める時だ」と主張する記事を読んだ。

もし実害がなく風評被害だけが問題なのであれば、確かに危機だけを煽る一方的な報道は、かえって被害を増大させる恐れがある。


その風向きには必ず時の政府への不信感が一定量混じり込むので、政府側の情報発信や働きかけは原理的に大きな効力を発揮しえない。そうした風向きを変えられるのは、マスメディアの力でしかない。今こそ、処理水問題についてもマスメディアが風評とその被害の抑制に向けて立ち上がるべき時だ。

河田 東海夫 元原子力発電環境整備機構(NUMO)理事、元核燃料サイクル開発機構(JNC)理事


 

科学的な実験や観察で裏付けられる事実は、私たちの直感では見えてこないことが多い。

科学者が冷徹な論理にしたがって事実を話しても、「信頼」と「共感」がなければ、うまく伝わらない。

三井誠『ルポ 人は科学が苦手』光文社新書(2019)p64/209


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